ザトウクジラの夜明け

ザトウクジラ  ピンク色に染まった東の空を背中に、ボートを沖へと走らせる。久々の凪になった海は、ゆるやかなうねりさえなければ、まるで湖のようだ。沖に向けて10分くらい走ってからエンジンを停止させると、不思議なくらい音のない静かな海が広がる。かすかに聞こえるのは、海岸で砕ける波の音とカツオドリの鳴き声だけである。
 僕が毎年3〜4月をザトウクジラの撮影をして過ごすようになって、今年で5年目になる。
 夜から朝へと刻々と風景が変化していくこの時間の緊張感が、僕は何よりも好きだ。ポットに入れてきた熱いコーヒーを飲みながら、朝日が父島の陰から差してくるのを待っていると、遠くに親子クジラのブロー(潮吹き)が見えた。
 小笠原の海には12月から5月にかけてザトウクジラが集まってくる。交尾や子育てを暖かい海で行うためである。この時期の小笠原は冬の荒い海が少しずつ春の海に変化していく季節なので、ボートからの撮影をするにはかなり厳しい海況である。今年も2月末からロケを始めたが、例年以上に海が厳しいため全く撮影にならず、3月20日ごろまでフィルム1本しか写真は撮れていなかった。
 やっと海が穏やかになった3月下旬、僕は連日早朝から海に出た。午前4時に起きると外はまだ夜が続いている。星がはっきりと見えて、木が強い風でざわめいていなければ、2 食分の弁当を大急ぎで用意してコーヒー山の我が家を出発する。僕の小さなボートで港を出発する5 時すぎには、ちょうど夜が明けてくる計算だ。漁師よりも早く出港する日も少なくない。日没まで撮影をする日は、帰港が18時を過ぎてしまうので、13時間以上も海の上にいることになる。
ザトウクジラ  凪が何日も続くと疲れがたまって、起きるのがかなり辛くなってくるが、それでも夜明けの撮影にはこだわってしまう。早朝は岸の近くでのんびり休んでいるクジラをよく見かけるし、出来上がった写真も昼間に撮影したものよりも光が柔らかく、はるかに“味がある”からだ。
 ボートから朝日に輝く海を眺めながら食べる朝食は格別にうまい。そして何よりも、夜から朝へと変わっていくこの時間は、自分が“地球の上で生きているんだ”ということを強く感じさせてくれる。きっと僕自身の中にもある“自然とのつながり”が、最も強くなる時間なのだろう。数えきれないほどの夜明けを眺めるうちに、僕は自分と自然を“別々の存在”としてではなく“ひとつのもの”として感じられるようになってきた。
 親子のクジラは岸の近くでのんびりと休息しているようだ。驚かさないように200m以上距離をとりながら、ボートのエンジンを停止して僕ものんびりと眺めてみる。父島を背景に逆光で見るザトウクジラのブローは、琥珀色の光に生々しく浮かび上がる。温かい血液が流れる哺乳類の仲間だということを改めて感じさせられる。
 撮影をするにはクジラとの距離がありすぎるが、こんな気持ちのいい朝にはエンジンをかけずにのんびりと眺めているのが最高である。撮影のチャンスとは自分で作るものではなく、きっと自然が与えてくれるものなのだろう。
 これが、僕がクジラから教わった“超簡単お気楽撮影法”である。