マッコウクジラの海〜クジラの泳ぎ去る彼方

 父島の南東、巽崎の沖合には、9月になるとマッコウクジラが群れ集まる。
 メスと子供を中心とする育児群である。
 "集まる"とは言っても、たいていは1〜2頭ごとに数q以上もの広い範囲に散らばって潜水を繰り返している。
 "どこまで群れが続いているのか""何頭いるのか"など、小さなボートの上からではまったく検討もつかない。すぐ近くを泳いでいる1〜2頭のクジラ以外は、遥か彼方に幾つものブロー(噴気)が小さく見えるだけなのである。
 それだけ遠くに離れていても、クジラ同士はきっと「そっちのイカはどうだい?」なんて、お互い連絡を取り合っているに違いない。
 ときおりクジラたちは集まり、10頭以上もの群をなして泳ぐことがある。
 20数頭のマッコウクジラが体を絡み合わせるように密集して泳ぐ"マッコウ玉"に、僕はたった一度だけ遭遇した。

 僕はマッコウクジラの生き様に圧倒された。
 どこまでも広がる海に適応したその生態は、僕の想像力を遙かに越えていて、マッコウクジラを"見る"ことは出来ても、それ以上に理解することは出来なかったような気がする。
 僕たち人間の感覚を超越したスケールで生きる生物が存在すると言うことは、自然との関わりを改めて考えるきっかけを与えてくれた。
 何年間も海で撮影をしているうちに、僕の意識は被写体である生物よりも、その背景にある広がりや何10万年もの時の流れ、そしてすべての生命を育んでいる生態的なつながりへと向かうようになってきていた。
 海や生物の営みを眺めるとき、余分な予備知識を取り除き、まるでかっての先住民たちのように、純粋に自分自身の経験だけから見ることができるとしたら、それはどんな風に見えるのだろうか?
 マッコウクジラやアオウミガメ、海鳥などは季節の訪れと共に現れ、時が来ればどこかへと去っていく。
 クジラが泳ぎ去った彼方には大海原がどこまでも広がり、その先で起きていることを僕たち人間は知ることもできないのだろう。
 このように眺める風景は、きっと現代よりも遥かに大きな広がりをもって感じられるに違いない。そして、その"広がり"とは決して測ることの出来ないものであり、この未知の世界に自分たちの運命を委ねているという自然観、自然への畏れや敬いにつながっているような気がする。
 もし今、僕たち人間がこのように風景を眺めることが出来るとしたら、そのときに感じることこそ、人と自然との関係を本当の意味で物語ってくれるのではないか?
 大海原に生きるマッコウクジラとの出会いを通して、僕はこんな風に感じた。