カツオドリの島:その3「11月 カツオドリの日」

 11月。島生まれの広本さんと山に入った。
 竹籠を背負った広本さんの後に付いて尾根を越え、急な斜面に出た。斜めに傾いだスダジイの巨木があちこちに生えている。
 少し下ると広本さんはしゃがみ込み地面を調べ始めた。
「カギンコ」という太い針金のような道具で穴の中を探る。
 籠から手鍬を取り出すと突然地面を掘り始めた。
 ふたたびカギンコで穴を探り、また手鍬で掘る。
 地面に肩まで手を突っ込み穴から何かを引き出した。
 島の人たちが「カツオドリ」と呼ぶオオミズナギドリである。

 御蔵島で生きる人たちにとって、このカツオドリはなくてはならない大切な存在だった。
 断崖絶壁に囲まれる小さな島・御蔵は風や波がひときわ強く、自然は豊かだが同時に厳しい。海に囲まれていても、荒れることが多いため出漁できる日は少ない。とくに10月からの半年は滅多に海へは出られない。
 カツオドリは冬場の貴重なタンパク源だったのである。
 捕獲するのは11月。親鳥はすでに南の海へと旅立ち、巣穴には脂肪を体に蓄え丸々と肥った雛だけが残っている。雛は夜になると穴から出て飛ぶ練習をし、若鳥となり巣立つ日を待っているのだ。
 この時期の雛は脂肪も多く肉も柔らかい。肉は煮付けて食べたり塩漬けにして冬の間の保存食にした。骨や内蔵の一部は砕いて塩漬けにし「ショッカラ」という出し汁になった。これは野菜と一緒に煮るととても旨いそうだ。羽毛は布団や座布団に、脂肪は食用油やランプの油として利用した。最後に残る頭は家畜の餌や畑の肥やしになったという。
「捨てるところはほとんどなかった」のである。
 それほど昔の話ではない。今50代の人たちが子供の頃には、カツオドリの脂を燃やすランプを使っていた。僕と同じ昭和37年生まれの道雄さんは「体の何分の一はカツオドリで出来ている」ほど、冬はふつうに食べていたそうだ。
 カツオドリを獲り尽くさないように、島には厳しい掟があった。
 獲る日は3日間だけ。その日は学校も休みになり、村中総出で山に入った。それぞれ何10羽もの鳥を背負い800mもある山を越えてきたそうだ。
 獲り方も決まっていた。夜の山に入れば簡単にたくさん獲ることができる。しかしその方法は御法度とされ、昼間に巣穴を掘るという労の多い獲り方だけに敢えて定めていた。
 決められた日以外に獲った者は文字通り"村八分"になったという。
 林業で生きてきた島の人たちにとって、山や森は何よりも大切なものだった。カツオドリは森の地面を歩き回り、木の根元を数mも掘り返す。
 島の人たちにとって、カツオドリとは貴重な食料であり、同時に大切な森や農地を荒らしてしまう「害鳥」でもあった。
「保護をしながら間引いていた」のである。
 その頃の島には「生かし鳥」という興味深い習慣があった。
 カツオドリを獲りに行った島民は、雛を1羽だけ生かしたままで持ち帰り子供に与えた。
 子供たちは学校の裏に穴を掘り、それぞれ自分の生かし鳥を入れ、見せ合ったりしながら遊んだという。
「自分のカツオドリがいつ飛べるようになるか、子供でもちゃんと分かるんだ。そろそろだと思うと、友達同士で崖っぷちまで行って、鳥の背中に唾をぺっと吐き付けてから放したんだ。」
 "唾をつける"のは一種のおまじないのようなものだったらしい。
 現代的な娯楽が少ない時代、子供たちはこの鳥を飼いながら遊び、カツオドリの扱いを自然に学んでいた。

 広本さんのカツオドリ捕りを、僕も少しだけ手伝わせて貰った。
 巣穴を掘って、鳥に手が届くようにするだけでもかなりの重労働である。
 かって島の人はこうやって何10羽もカツオドリを獲り、100sちかくも背負って山を越えたのだ。村に戻ってからも、毛をむしったり肉をさばいたり脂をとったり、いろいろな仕事が待っていた。
 食べ物を手に入れるとは、なんと大変なことなのだろう。
 そうしなければ、人は生きていくことができなかったのだ。
 この日僕は「生きる」ということの本当の意味を、初めて少しだけ理解できたような、そんな思いがしていた。
(現在は"害鳥駆除"として年に一度だけオオミズナギドリの捕獲をしています)